| Design Policy 「デザイン」とは多様な関係性を生み出すことであり、その関係性こそ本質的な事です。また多様な可能性の中から一つを選び出す「デザイン」という行為にはポリシー/思想が必要です。 ひととひと、ものともの、などの関わりをいかにとり結ばせるか、どこにも天から与えられた真理のようなものはなく、それぞれに相応しい関係性を探ることからデザインが始まります。 デザインとは、人間の存在に関わる本質的な部分であり、決して形態的な表層的な事ではありません 。言い換えれば、人間に対する優しい感性を日々磨き、その感性で敷地や使う方たちや素材などに向き合う、という事がとても大切な事と考えています。
平面プラン 人と人、人と環境、内と外がうまく関わる事で何かより良いものが生まれて来るのだと思います。 そのためには、平面プランがすっきり美しく、伸びやかである事がとても大切です。美しいプランは工事もしやすく、構造的にも安定し、やはり内外空間も美しくすることにつながります。
外観/ファサード 社会との接点であり、また社会に対して責任を負う部分でもあります。 「品性」が感じられるように、シンプルで緊張感がありながら豊かさを感じられるような、結果的には 100 年経ってもデザインが新しく感じられて欲しいと思います。 そのためには、現在の流行りや常識的に思われているものや、既製品などに流されない、時間への感覚が大切です。
コストとデザイン デザインとコスト管理、もちろんランニングコストも含め、一体のものであり、コストの制約があるからこそ逆に緊張感のあるものができるものです。限られた中での微妙なバランス感覚こそが我々に最も求められていると考えています。 また現状の建設業界は無駄が多すぎます。無駄を省き本当の適性なコストを追求する事でより良質な建築をつくれる事は、戦後の名作を見れば分かります。
素 材 近年は建築材料に様々な法規制があり、また商品として売れることが最優先される世の中で、まちを見渡すと「新建材」で溢れかえりつつありますが、それらはみな、何か自然の素材に似せたものであり、本当は安い工業材料 = 「偽物」です。確かにある種の見栄えはするかも知れませんが、詐欺のような話で、表面的な嘘はすぐに飽きられますが、建物の寿命はもっと長いのです。 何も昔の様に、全て木と土と瓦と紙などでつくれという意味ではなく、新しい素材でも、表面を嘘で固めた偽物にするのではなく、その素材をそのまま生かすような使い方をしたいと思います。
設計を依頼するということ 建設業界は、素人である建築主には理解しきれないのは当然ですが、かなり不透明な部分が多いのです。工業商品の様に本当に競争にさらされておらず、未だに地縁や血縁、営業力によって真の競争をせぬままに、更には公共投資にも守られ、談合を行って生き延びているのです。 また、設計料が余り多くもらえない現状で、中途半端な設計図しか描けず、結局工事側に曖昧な部分が押し付けられ、結果高い工事金額となっているのも現実です。 そんな業界を、素人のあなた1人で相手にまわすのではなく、きちんとした建築設計者なら、力強いパートナーなり、不透明なものを透明に、不必要なものを削り、本当に大切なものを第一に考え、きっと満足のゆく結果を残します。それに対する設計監理料は、工事全体を考えれば当然必要な範囲であり、トータルに考えれば逆に安くつくくらいだと思います。
設計監理料について 設計監理業務は、建築主の住宅へ思いをできうる限り反映し、また工事監理まで含めた性能の確保と向上や、もちろんデザインなどの「質をどこまで高めるか」という作業であり、必要な報酬を頂くことにより、様々な検討を深める事によりトータルコストを抑える事も可能だと思います。 私の事務所の設計料が、世間で良く言われる総工事費の何%でなく、延床面積に対して算定していますのは、ローコスト住宅等で、通常より時間をかけて知恵を絞って工事費を下げた事によって設計料までも下がってしまうということでは、われわれも依頼主のために全力で無駄なコストを削るということに取り組めないからです。 また、工務店やハウスメーカーの一部で設計料を明示せず、サービスかのように言うところもありますが、結局、それ以上のものが不透明な「経費」として工事費の中に乗っているだけのことです。 設計の契約に関しましては、最初に簡単なヒアリングをさせて頂いた上で1案を無報酬で提示させて頂き、双方の住宅をつくる事への考え方が合っていれば設計監理契約を結ばせて頂きますし、合わなければ遠慮なく案を返却頂ければと思います。やはり設計というのは結婚と同じく、永い間のつきあいになるのと、感性が合わなければ良い結果は生まれませんので、まずは気楽に第一案までは、軽い気持ちでご希望ください。
性能、地震に対して 性能が様々に問われています。阪神大震災(実は私も被災しました)以来、耐震性は様々な議論や研究をされましたし、現実にも問題も多く、性能面での明確な議論がされた事は喜ばしい事であったと思いますが、その耐震性に関し何が問題であったかと言うと、ほとんどは施工不良に関わるものです。当然すべきであった事がしていなかった訳ですから、それを正すのは当然です。 でも、「性能」という言葉に振り回されないで下さい。ハウスメーカーが住宅を売りたいがための宣伝文句ですし、住宅は商品ではありません。あなたの人生は商品のように型にはめられるものではなく、本当の心の「豊かさ」とは、数値化できる性能で実現できる訳はありません。
ひととすまい ひとや家族と、住まいの形式にどれだけの関係性があるか、明確な答えはないけれど、間違いなくある関係性はもつはずである。人間というのはおかしな動物で、本能が壊れていると言われたり、逆に言うと無限の可能性があるからこそ今のように多種多様な社会をつくりだしているのだろう。そして、ひとは本能や遺伝などよりもずっと、生まれてからの外的環境によって決定される部分が多いだろうことは様々な事が教えてくれる。また、ひとには無意識の領域があり、意識の上の事などはほんの氷山の一角に過ぎないということが軽視され過ぎではないだろうか?気付かないところで自分の行動が操られていると言う事を。 住まいと形式 住まいの形式には、歴史の中で脈々と受け継がれて来たもの、ある特殊な状況の中で発生し、何故か定着してしまったものが大多数であり、今、この状況で何が相応しいのかなどという議論とは無関係に成立してしまっている。歴史は守るためでなく、今の状況を絶対視せず相対化し、批評するためにこそ存在意義があると考える。同じ意味で他文化/地域における住まいなどにも、自らを相対化するための意義を求める事が出来る。
住まいの持ち方 我々は何故住まいを持とうとするのだろうか? 住まいを持つ事自体には決して意味はなく、その後の家族のあり方にしか意味はないはずである。何十年もローンを負って家を建てるなんて日本だけらしい。そりゃそうだろう。 国が持ち家政策みたいな事をやる意義は現在にはないはずであり、最低限の量を確保すべき時代はとっくに終わり、質についてきちんと考えてこなかったツケが現在の様々な歪みにつながっているように感じる。 持ち家ありきではなく、どんな家族をつくるか?そのために住まいに何を求めるか?ということを家もそのための道具に過ぎないという視点で考え、それでも必要なのは何かと問うていくことではないかと思う。
商品化住宅 多くの建築家はハウスメーカーの「商品化住宅」に対し非常に反発心をもっているが、建築家たちは、数としてその数%も手掛けられていない。商品化住宅には文化性がないと言いながら、そんな少数派で文化を論じても限界がある。最大の問題点は、「持ち家政策」から脈々と守られ、国際的にも国内的にも競争力を持たず、そのしわ寄せが全て国民にいっていることである。そしてその国民に住宅を判断する力が養われていないことだ。文化なんていうレベル以前に。
木造でつくるということ モダニズムにより発見され、評価されたその美意識は、国策としての住宅政策等にすっかりスポイルされてしまっているが、我々の唯一の拠り所として、いまこそ取り戻さねばならないものである。 木材は性能や供給性等で優れた面が多々あるだけでなく、日本人に最も親しまれた材料である。しかし、現状の構造材としての木材は、安いという理由だけで壁の中に閉じ込められ、呼吸をするという性能や姿さえも現すことがない。また、作り手側の技術やプライドまでも失われつつあり、現場の良心任せの曖昧な基準が阪神大震災のような結果をもたらしている。もちろん、見えないものへの意識や文化が育つわけもないのだから。
ひととまち 「まちづくり」が盛んに行われているが、日本においてどうもしっくりこない、なぜだろう。 個々の建物や私権を主張すること対すし、「まち」を良くするというのはある種の義務であるはずであり、社会に入るということは様々な権利と共に、様々な義務をも負うはずである。 「自由な社会」なんて訳の分からない言葉で、自由だけでは社会は成り立たない。そろそろ戦後半世紀以上経って、もうちょっとちゃんとした議論があっても良いのではないか。
まちなみ/景観 歴史的町並が残っているまちでは、保存し、観光資源などとして賑わいが戻って来ている例も多いが、歴史というのは取り戻すべき対象ではない。また、今の時代の町並とは?というのはとても難しい問題で、当然すぐに答えが出るはずはない。決めてしまえば簡単だがそれこそ独裁でしかない。 ただ言える事は、個人が公共に対して責任、義務を感じ、負ってゆくこと。その意識がない限りは何をやっても無駄な気がする。 しかし、これだけ野放図に敷地を分割し、その中での建築の自由を与えてきたのは、政治とも深い関連があり、そこに切り込み、「都市の品格」を取り戻すためには、建築士なりが職業的使命感をもって働きかけるべきではないか?市民や世論に期待する前に。
コミュニティ どうしたら自分のまちに責任と誇りを持てるだろうか? 結局やっぱり人と人のつながりなのだと思う、というかそれしかないんだと思う。 でもできるだろうか?こんなに家族が揺らいでいる時代に。だからこそ、社会の基本単位である家族とそれを育む住まいを見つめ直し、考えてゆくべきなのだろう。 そして、我らの世代として、少しでも後世のお手本となるような生き方を示す事。でなければ誰も明日に希望なんて持てないのではないだろうか??
建築と社会 建築、建物って普通は社会的に何らかの用途を割り当てられてつくられ、存在している。学校、住宅、事務所等のそれらの用途っていうのは、実は我々の活動を或る枠にはめているのである。そんな事はあまり考えないかも知れないけれども。 しかし建物は一度建てたら50年くらいの耐久性はもってしまう。でも数十年後に学校なら学校が今と同じ存在であるなんて思わないだろう。だから本当は、設計者としてその制度的な部分に関わり、批評的に新しいものを生み出していかない限り本当に後世にとっての良いものはできない。
環境と建築/持続可能な建築 環境配慮的な議論が盛んにされているが、どうも産業先導が過ぎるように感じる。確かに、産業がついて来ないと大きな力にはなりにくいだろうが、一番大事なのは、我々の意識の問題ではないだろうか?エコロジー的発想というのは、近代産業を育てた合理主義的な見方ではなく、「風が吹けば桶屋が儲かる」という、非常に多面的なものを総合的に捕らえ、評価できることではないか。そしてそれこそが今必要なのだ。 できるだけハイテクに頼らず、ローテクで、肌身に感じること。意識を変えることをいかに成し遂げるか。
建築士の役割 今の建築士はとても危機的状況におかれている。 それもこれも自らの怠慢の結果であり、建築士の中にも「図面屋」「設計屋」「設計業者」「設計士」「建築家」などとバラバラな呼ばれ方=社会的取扱いをされているということは、どれだけ社会的な地位を確立しようとしてこなかったかということなのである。 医師や弁護士などと同じくらい、社会的に重たい役割をになうべきなのに、コストも、現場も、メンテナンスも把握せず、デザインだけを振り回したって誰も認めてはくれない。建築は至って社会的な行為なのだから。 もっと社会に出て、社会と戦い、社会的信頼を得られる努力から始めないと消え失せるしかない存在なのかもしれない。
公共建築 行政が市民に計画を与える時代は終わり、これからは市民が主体的に考え、行政が参加する時代だと言われている。今までの公共建築は現実的な利用率や市民の声などを無視し、予算や補助がつくままに無批判的にハコばかりつくり、建設業界を潤す事に主眼があったのではとさえ思える。 だが使うのは我らの税金だ。市民が立上がり主張すれば通らない事はないはずであり、そこに突破口がある。待っていたって彼らは変わらない。公共施設は使われてナンボである。市民みんなで考えることでいろんな意識が高まる、むしろそちらの方にこそ公共施設の意義があるのではないだろうか。 また、そのような公共建築の設計者が安ければという入札方式で選ばれていては、より質の高い建築など求めるべくもない。実力のある設計者がもっと公開された中で選定され、市民とともに、相応しい公共建築を生み出せるような時代に、早く変わるべきである。 |